榛原紙店と竹久夢二のこと
――伝統と流行、格式と趣味とのあわい
この記事を書くにあたって改めて、榛原資料室に保存されている夢二デザインの絵封筒や巻紙、書簡箋、団扇絵、版画などをまとめて実見する機会を得た。今回は、なかでも数多く残されていた絵封筒(榛原紙店では絵文筒と称し、夢二自身は状袋と呼ぶ)を調査した結果、見出すことのできた特徴を述べてみたい。
榛原紙店(以下「榛原」と記す)と竹久夢二の関係は何時頃始まったのであろうか?
現在資料室に遺されている作品を確認する限り、両者の関係は大正初期(1913年前後)から昭和初期(1930年ころ)まで、夢二が関西方面に居を移していた数年間の空白期を挟んで、少なくとも20年弱(17、8年)に亘ると推察される。
現存する資料のうち、榛原との最初の交渉は大正2年4月、「第三回夢二作品展覧会」の進捗を大阪から伝えるはがきである。このはがきは夢二から「はいばら様」へ宛てられていたが、大正3年正月の2通目からは榛原の番頭を務めていた「竹内義治(図1)」宛となり、以降も夢二と竹内との間でやり取りされた書簡が数通確認されている。
その大正3年正月の葉書からは、この当時、「夢二画集」の人気を受けて日本各地で画会(作品頒布会)を開催していた夢二が、旅先の各地から竹内に宛て、日本画制作のための絹地や団扇、原稿用紙、雁皮紙の巻紙や状袋(封筒)を所望していたことが分かる。とりわけその中で「自分の画稿で雁皮紙の木版一度刷の状袋を作ること」を提案し、続けて、「此頃は何もかも実用品を心地よい趣味のものとしたいと考えています」と記していることは注目に値する。
夢二がデザインを提供した榛原に現存する絵封筒を確認すると、その初期のデザインの特徴として以下のように指摘できる。
主に絵封筒や書簡箋などのデザインとして展開されている図様は、酢漿草(かたばみ)や桜草、蒲公英(たんぽぽ)、落葉など夢二の好んだ身近な植物と、それに加えて、水草とアメンボ、胡瓜にアリ、女郎花にコオロギなど季節の花卉に小動物(昆虫)をあしらっており、なかには、夢二の初期サインである「艸」「Y」などが添えられている(図2) 。
さて、榛原製絵封筒のうちもっとも特徴的なものは、江戸期からの看板商品であった「五雲箋」と同様に、さまざまな色に染め上げた雁皮紙を素材に用いたもの(図3-1,2)であろうか。実際、先の書簡にも認められる通り、夢二は木版刷りを1~3色程度に限定し、雁皮紙の色味を活かして全体的に落ち着いた味わいのある状袋(図4)の商品を提案した。
これら榛原の紙小物(小間物)は、総て専門の職人の手によって生産された。明治41年に組織された「聚工會」に所属した榛原の商品に携わる画工や技術者は、京阪神地方をはじめとする日本各地への研修旅行で古美術や古建築への見識を深めるなど審美の研鑽を積んだ。技術を磨いた熟練した職人たちの手業は、のちに工業用記録紙の緻密な印刷を可能にしたほどの、木版の線画の鋭さや繊細さに見て取れる。
一方、竹内と手紙のやり取りをしたのち、地方での画会から帰京した夢二は、独自の感性を発揮した「日用品の趣味の向上」を目指して、港屋絵草紙店の開店に向けて奔走したであろうことが推察できる。
大正3年10月、榛原が日本橋通一丁目一番に店舗を構えていた頃、同じく日本橋の呉服橋詰に夢二は港屋絵草紙店(港屋)を開店した(図5)。港屋でも、手軽に購うことのできる絵はがきや絵封筒などの紙製品は、人気商品の一角を占めていた。しかし、榛原と港屋の商品の特徴を比較すると、大きく二つの違いが指摘できるだろう。
そのひとつめは榛原の商品が、文化3年の創業時から永く続く伝統に裏付けされて、目の肥えた作家や文化人に受け入れられたのに対して、港屋で扱われる品々は、当代流行の夢二人気に魅せられた少女や年若い女性を対象としていたという違いである。女学生が主要客層だった港屋には、よりカラフルで可愛らしいモチーフの紙小物や、半襟、絵日傘、団扇などの服飾品が必須であった。それらを使用したり身に着けることは、「夢二式美人」に扮することと同義でもあった。
ふたつめは製造者の問題である。榛原の商品が専門的な職人の分業によって生産されていたのに対し、港屋で取り扱う商品は、夢二の個人的なつながりか、もしくは知人を介して紹介された技能者に任せられていた。例えば、港屋の商品製作に携わった人物として、「錦公」こと、港屋版画の彫師であった村瀬錦司と半襟のミシン刺繍を手掛けていた吉田ソノの名が知られている。いずれも夢二がその腕を見込んで、個人的に雇用した製造者である。
村瀬錦司は夢二版画の彫師を務めたのち、港屋が閉店した大正7年には内閣印刷局に入局。その後も活字の改刻や種字制作を手掛けて出版社や新聞社を渡り歩き、技師として生涯にわたって彫刻に携わった。一方、吉田ソノは、米国のシンガーミシンが設けた裁縫女学院卒業後、港屋の2階に住み込んで夢二半襟のミシン刺繍を担当した。
こうして「日常生活を豊かに彩ること」を目指していた竹久夢二は、自身のデザインを販売店の格式や顧客の趣味、素材の特性や製作者の技術力に応じて巧みに使い分けることで、広く日用品の趣味の向上を実現しようと目論んでいた。
大正12年(1923)9月1日、関東一円を襲った大地震によって、榛原紙店は本店が火事で全焼するという甚大な被害を受けた。当時、渋谷に暮らしていた夢二は、被災直後の東京の街を記録するために訪ね歩いた東京駅付近で、榛原の四代目榛原直次郎(1880-1963、在職1900-1961)から直接その被害について聞き及んでいた。
一人で食事をするのも興が無いと思って、「はいばら」の店へはいって主人を誘って見た、榛原氏は軽快な洋装で忙しそうに出てきて「まあこの姿で働いています。私はまだ年が若いからこれで薬になるでしょう。焼いた商品は惜しくはありませんが、永年蒐集した参考品を失くしたのはちょっとあきらめられません」という。古い千代紙やコマ紙などの版木も焼いたという。新しく板をおこすにしても、バレンを造る職人がないそうだ。
竹久夢二「帝都復興画譜」『女性改造』2巻11号 大正12年11月
一方で夢二は、同じく四代目から聞き及んだ、榛原の職人のプライドを感じさせる以下のようなエピソードを伝えている。
これも榛原の主人の話だが、小間紙をたつ職人がやはり地震の時、牛めし屋になつてゐるので、就いてきくと、たち庖丁を燒いたので、その邊の出來合では間にあはず、堺までいつて自分で自分の腕に合ふのを買ひにゆく旅費はなし、身に染みない仕事をするより、いつそ牛めし屋の方が氣樂ですからと、言つたと言ふ。この職人の自信もまたうれしいと思ふ。
竹久夢二「市朝雑記」『青陽』1巻7号 大正13年7月
また、界隈の団扇問屋が擁する職人についても、四代目から聞き及んでいた。
地震の際、主人何より先きに出入の職人の所へ樣子を見に往つた。着のみ着のまゝ避難してゐた職人を見て、まづ道具はと訊ねると「如才はございません」と懐からバレンと刷毛を取出して見せたといふ。紀友(きとも)主人の感じていふ。さすが名人は違つてゐます、と。これが下職の名もない奴だとどさくさと逃げ後れたり、どちをふんできつと死んでゐるといふ。
そんな職人を抱へてゐる紀友の主人も、さすが名人だとおもふ。
竹久夢二「市朝雑記」『青陽』1巻7号 大正13年7月
※紀友商店は日本橋南詰の元四日市町にあった団扇と扇子の問屋。冬には蜜柑を売った。万町の榛原紙店のすぐ傍にあった同業の店である。
榛原紙店は、9月の大震災よりも早く、2月には竣工した丸の内ビルヂング内に支店「丸の内セールスルーム」を開業していたものの、日本橋の地での本店営業再開には実に震災から約7年の時を待たなければならず、しばらくは丸の内支店での仮営業を余儀なくされた。そして区画整理により、昭和6年2月、ようやく日本橋通2丁目に場所を移し、地上5階建て新築ビル(図6)にて営業を再開する。コンクリート建築の新店舗は、ゼセッション様式の外観デザインに瓦葺きの庇などを取り入れた和洋折衷の瀟洒な店構えであった。
一方、相前後して大正半ば以降から昭和初期に製作された夢二デザインの小間物の図案には、手書きの漢字やローマ字をタイポグラフィー風に図案化したものや、抽象的な図柄や紋様が増える傾向(図7)がある。これは、同時期の書籍装幀やセノオ楽譜にも共通する、夢二のモダンデザインへの接近を示している。こうしたデザインの変遷を反映した商品として、同じ頃、榛原製「抒情文筒」「抒情画箋」と名付けられた、夢二作品の持つ〈抒情性〉を強調したシリーズが登場した。
管見の限りでいえば、楮紙に単色で刷られた「抒情文筒」は、寒色系の淡く落ち着いた色彩で仕上げられている。デザインのモチーフは、初期絵封筒と同じく植物や風景に共通するが、その多くがより抽象的、紋様的に表現されていることが大きな特徴として見て取れる。一方「抒情画箋」シリーズは、用箋に罫が引かれ天が糊付けされたノートパット型であり、毛筆から万年筆への筆記用具の変化に合わせて企画された商品と思われる。
最後に、榛原製「ゆめじ透画文筒」と名付けられた絵封筒を紹介しておきたい(図8)。
これは図案を刷った楮紙の上に薄紙を掛けて二重にし、薄紙から透けて見えるデザイン=「透画」を楽しむユニークな趣向となっている。誰が考案したものか、製作の背景は定かではないが、榛原の資料の中に同様の商品は認められないので、おそらく夢二自身か、彼のデザインと紙の特性を熟知する者が提案したと推察する。
四代目榛原直次郎と竹久夢二は、夢二が年齢にして4歳年下のほぼ同世代。立場は異なれど互いに共感できる部分も少なくなかったことだろう。殊に夢二からすれば、被災後に食事に誘うほど気安い関係だったに相違ない。
竹久夢二と榛原と、デザイナー夢二と経営者との関係が凡そ20年近くの長きにわたって続いた例を私は他に知らない(図9)。
先代(三代目)店主は美術工芸に造詣が深く、各種の美術品も蒐集していたという。加えて、雑誌「技芸之友」の出版を通じて、万国博覧会等への出品により世界から注目の集まっていた日本の工芸界の将来と、それを支える職人の修養のために尽力した。榛原に関係した明治期を代表する多くの日本画家や美術工芸家、河鍋暁斎や川合玉堂、川端玉章、柴田是真とその一門の綾岡有真、伊藤綾春らに並んで、明らかに異色の存在であった竹久夢二の四代目による思い切った登用が、榛原紙店の長い歴史に清新な足跡を刻んだ一時期があったことをここに記しておきたい。
中村直次郎/著 『随筆からかみ 日本障壁画よもやま話』 株式会社榛原商店 1963年
雪 朱里/著 『書体が生まれる ベントンと三星堂がひらいた文字デザイン』 三省堂 2021年
東京ステーションギャラリー(旧新橋停車場 鉄道歴史展示室)
「千代紙いろいろ 小間紙の世界 のし・短冊など」2007年4月10日~7月8日 図録
金沢湯涌夢二館「NIPPONの美しい紙文化 日本橋〈はいばら〉と夢二」2008年8月2日~11月30日 リーフレット