四代目榛原直次郎と川瀬巴水

岩切信一郎美術史家

川瀬巴水の《版画名所団扇》

四代目榛原直次郎[本名中村真太郎1880(明治13)年~1961(昭和36)年](図1)と版画家・川瀬巴水[1883(明治16)年~1957(昭和32)年]はほぼ同世代といって良いだろう。正確には四代目の方が3歳上ということになる。風景版画家としてその名を知られ始めた川瀬巴水が、四代目からの依頼を受けたのが「はいばら(榛原)」の夏の主力製品であった団扇12本 (図2-1〜12)(その団扇絵12図)(図3)であった。1935(昭和10)年の榛原商店『流行団扇』目録によれば、《版画名所団扇》と銘打って木版多色摺の風景版画団扇(「風景版画 棕櫚竹柄」)として販売されている。その広告文には、

日本の名所を描きたる川瀬巴水先生の原画を版画として製作致した品、巴水先生は日本の版画家として世界的に知られて居らるる方であります

とある。その12本(12景)のタイトルは、《高松の朝》、《姫路城》、《七里ヶ浜》、《奈良猿沢池》、《月の松島》、《宮島の雪晴》、《日光けごんの瀧》、《あたみ錦浦》、《金閣寺の暮雪》、《十和田湖》、《雨の奥多摩》、《富士の曙》で各地の代表的名所風景が配されているのである。なお、この「巴水画はいばら団扇絵」の題名は『巴水団扇絵十二景』と称されて来たが、それはこの後に作られた加藤潤二版から使用された名称であり、はじめに制作された「はいばら」製品の巴水団扇絵は《版画名所団扇》が正式題名なのである。

「団扇」は鑑賞用とも言えようが、要は手に取って涼を招くものである。巴水はもちろんそのことを踏まえて版下絵の筆を執ったことだろう。四代目の時代を伝える史料の中には、この団扇の制作年代を裏付ける巴水の原画がある。団扇形に描かれた色ざし原画(水彩)(図4-1,2)6点で、「昭和九年十二月作」とある《高松の朝》、《奈良猿沢池》、《宮島の雪晴》、《金閣寺の暮雪》の4点、そして「昭和十年一月作」と記す《十和田湖》と「昭和十年二月作」の《姫路城》である。この原画年代や販売目録から推定するに、この12本の巴水風景版画の団扇は、1934(昭和9)年末頃からこの団扇制作を開始し、販売されたのは1935(昭和10)年夏であったことがわかる。国内の鉄道網拡張による観光旅行ブームもあり、各地の名所が新聞や雑誌でも話題となり、「風景」への関心も高まっていた。巴水版画が売れ行き好調の背景にはこうしたこともあった。

巴水にとって、老舗「はいばら」から声が掛かり、団扇絵依頼となれば、ある緊張があったことだろう。だれでも描けるチャンスがあるわけではない。しかも単に四角の画面に描く風景ではない。「団扇形」という特殊な画面である。巴水はこの課題に、近景、中景、遠景と画一的な風景とならないようにし、さらに四季の配置や朝、昼、夜の場景も取り入れ、十二景に変化を付けて巧みに描き分けられている。スケッチブックに残る昔の旅からではなく、ここ一、二年の旅の印象がさめやらぬ新鮮な風景を選んだようである。

「はいばら団扇」の変遷―三代目の頃―

「はいばら」は文化年間(1804~1817)創業以来、団扇は主力製品で看板商品「雁皮紙」を使った「雁皮張榛原形」で知られていた。代々工夫を重ね「八寸形、九寸形、卵子形、京形差柄、小団扇」(図5)などの形状、伝統の江戸模様ばかりでなく流行の今様意匠や絵画も用いられていた。依頼されれば画家の揮毫による団扇も扱っていたが、多くは伝統木版技術による色彩豊かな木版画が機能していた。

単に紙商として紙だけを扱うのではなく団扇をはじめ、書簡用紙、封筒、千代紙、熨斗(のし)紙、など古い言葉で言えば「小間(こま)紙」の類が評判の商品であった。和紙だけでなく、和紙に装飾意匠を施した加工紙製品を制作し販売する店でもあった。木版の味わいを演出する専属の伝統木版工房ももっていた。品の良い優美な江戸趣味に力を入れ、こうした紙文化発信の店であった。

幕末から明治期に活動した三代目榛原直次郎[本名中村平三郎(1846~1910)]は、「襖紙」の商品開発でも海外へも知られ、国内外の博覧会に出品して紙製品の優秀さを示し、常に表彰をうけていた(図6)。名代の暖簾のもとで「はいばら団扇」は好評の商品であっただけに、代々の店主の趣向や個性の発揮が売り上げに反映するのであった。

ちなみに、1896(明治29)年5月の『文芸倶楽部』(博文館)には東京発進の「本年の団扇」として榛原商店が紹介され、

形状かたちは例の卵形にて、榛原製には新卵形なる、やゝ小形のもの売口よし、九寸はポツポツ注文あり、ナツメ形(図7)は全くすたれたり、画は榛原製の優美なるはいふまでもなし、一體に仕入品にも歴史画花鳥画等を重とし、間々古代模様あり俳優画は僅かに田舎行に止まれり、相場は榛原製普通百本六圓より、三圓五十銭内外、上等品は一本五圓位のもの、出来合あり、堀留仕入品は百本一圓五六十銭より、二圓までを普通とす暑気に迫らば猶少しく騰貴を見るに至るべし。

とある。「堀留」は同じく日本橋の伝統的団扇産業の地であった。その堀留よりも一頭地を抜く老舗であったことも示している。さらに、「外国行雑貨としての団扇は、例年九月より翌年二三月頃までに、積出すを常とす、本期堀留の伊勢惣より輸出せしもののみにても、十四五萬本に及べり、千本五六圓より十圓までにて、形は九寸なり、押し畫絹張等の上等品も、追々売行あり、一本三十銭内外なり、近来粗造のものは、漸く排斥され、上等品の需要を来す傾向なりといふ。」と海外輸出品であったことも示されている。ちなみにこの雑誌には樋口一葉(1872~1896)の小説「われから」が掲載されており、その時代をうかがい知ることが出来る。

「はいばら団扇」の変遷―三代目の頃―

明治の三代目から経営を引き継いだ四代目の活躍期は大正・昭和期であった。信頼のブランドとして、時代に叶った商品開発の使命を負わされていた。1914(大正3)年には日本橋に近い位置に東京駅が開業し日本の鉄道網の基点と成った。このことは商品流通の面で画期的な時代を迎えていた。顧客も全国にわたり地方からの注文を受け、品質を高め幅広い客層の支持を得られる商品の充実がめざされた。

特に「団扇」では、根強い支持のある伝統的商品の維持と新装意匠の新作団扇を求める要望にも応えねばならなかった。新作にあっては、時代流行の先取りが急務で、それだけに模様やデザインの流行情報、評判の装飾家や画家たちの評判には鋭敏にならざるを得なかった。その点、当時の銀座から日本橋界隈はファッションにしても、芸術面での展示会や画家の展覧会のメッカでもあった。顧客の中には画家も多く、そうした顧客からの情報も情報源だったと思われる。毎年、夏を前にして発行された販促目録『流行うちわ(新形うちわ)』(図8-1,2)の発行は、毎年20点を越す新作披露に及んだ。目録には四代目の苦労や商売戦略のあとが偲ばれる。

昭和初期「はいばら」の販売品目録『流行団扇』を見ると、1927(昭和2)年には「昭和の初め、御聖代をことほぐ意に寄せ、新日本現代画を以て、四季の風物を写したる絵うちはを、昭和うちはと名づけ、印刷も色彩も総て新らしき試みにより、新時代の光を現しました」として、1928(昭和3)年には能楽から十二種の華麗な「能楽うちは」、あるいは江戸趣味「川柳俳画うちわ」として小川芋銭、森田恒友、丸山晩霞等、1929(昭和4)年には「古い江戸趣味の団扇に新らしい芸術味が流れて居る」と榛原新作団扇の宣伝フレーズとし、団扇を「当代一流の画伯の名作品を精巧なる木版印刷により仕上げたる芸術品」と謳った。それだけに毎年20数点の新作を実現させる四代目の苦労は多かったことだろう。とくに「流行」を先取りし、描いてもらう画家の選別には情報収集と実際に絵に触れての着眼で、どのような団扇絵を依頼するか、並々ならぬものがあったことと思う。

川瀬巴水と四代目榛原直次郎

1930(昭和5)年目録『流行うちは』を見ると、新版団扇の当時の新進漫画家、前川千帆、水島爾保布、宮尾しげをの三氏と近代川柳の祖とされる阪井久良伎が起用され、さらに二人の新鋭日本画家の田村彩天(1889―1933)と小早川清(1899―1948)を迎えている。特に小早川清は今日では伝統木版の新板画でも知られるが、この「はいばら」の団扇版画が小早川版画の先鞭となった。しかも小早川は鏑木清方門下で「郷土会」メンバーでもあった。

当時の慣例からして小早川は師匠である鏑木清方の許可なく榛原から団扇の版下絵を描くことは考えられないので、そこには四代目と鏑木清方および郷土会の関係が浮かび上がる。師弟関係の規律の厳しい時代である。師匠への一言の挨拶を必要とした。清方にしても「はいばら」のある日本橋には関係が深い間柄である。清方とその門下による郷土会と言えば、門井掬水をはじめ西田青坡、笠松紫浪、川瀬巴水、伊東深水、山川秀峰などの主要メンバーがいる。京橋・日本橋界隈の美術情報には精通した四代目である。そのことを思うと、川瀬巴水は郷土会の画家でもあり、巴水と四代目の交際も、鏑木清方および郷土会との親しい関係があったことが推測されるのである。

巴水の名声が海外に及んだきっかけは、1932(昭和7)年の国際観光局から海外向けに制作された《観光ポスター JAPAN》であり、これには巴水版画《雪の宮島》が添付された。さらに1934(昭和9)年には鉄道省国際観光局の海外宣伝カレンダーに同じく巴水版画《精進湖より望む富士》が用いられたことが大きい。四代目もこの好機を見逃さなかったのであろう。四代目と巴水との交友を偲ぶ作品として、巴水の落款と制作年が記された水彩画が幾枚も残されている。その期間は1931(昭和6)年から1937(昭和12)年と長期にわたっている。こうしたことからも、四代目と画家川瀬巴水との親しい交友があればこそ《版画名所団扇》製作に結実したと見て妥当であろう。

ちなみに、1935(昭和10)年から1936(昭和11)年にかけて、巴水版画の団扇絵12景・12本の新作《版画名所団扇》は好調な売れ行きで、完売したようである。さらに新企画で《新興錦絵 日本名勝》(図9)と題して「榛原商店」から発売された。それが角版錦絵(多色摺版画)6景1セットで《一「雪晴 宮嶋」》、《二「朝なぎ 高松」》、《三「古城 姫路」》、《四「夕暮 奈良」》、《五「ふる雪 金閣寺」》、《六「夏の湖 十和田」》である。これは《版画名所団扇》発売と同年の下半期頃の製作と推定される。残りの6景もこれに続いたと考えられる。また、加藤潤二版『巴水団扇絵十二景』は、はいばらの《版画名所団扇》12景の好調な売れ行きを受けて、それにあやかるかのように版画として制作されたものである。はいばらの《版画名所団扇》は川瀬巴水と四代目との交友あっての賜物と言えよう。末尾ながら「はいばら」の創業以来の貴重な資料の、一層の解明と活用が成されることを今後とも期待したい。

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