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近代日本の歩みとともに

文:大島 正昭


熨斗絵 聚玉文庫所蔵

脇付きハガキ・脇なしハガキは、榛原直次郎が製造。

これまで、二つ折りはがきの製造はすべて紙幣寮と思われていた。ところが最近、当時の資料をたどり、紅枠はがきを除く脇付きはがきと脇なしはがきは、日本橋にある紙商・榛原直次郎に製造させたと確信するようになった。本稿では、この説の裏付けとなる資料を紹介する。

本稿の根拠は、主に「郵便切手類沿革志」であるが、他の資料も榛原製造を裏付けるものが多い。以下、二つ折りはがきの発行の経緯をたどり、推定を交えつつ、表題の論拠を述べる。

CONTENTS _1 紙商「榛原直次郎」について

昭和初年に四代目 榛原直次郎が書いた「暖簾に礼賛す」によると、江戸の版元須原屋茂兵衛から暖簾分けした初代須原屋伊助が、老舗の金花堂を譲り受け文政6年(1823年)独立し、さらに紙問屋の今井・榛原を買収し、「榛原直次郎」を屋号とした。

現在も株式会社榛原として日本橋に本店があり、社長は六代目の中村明男氏 、和紙の小物・ステーショナリー類と計測機の記録紙には根強い人気がある。
ここで話題にするのは、三代目 榛原直次郎である。文久元年(1861年)、若年で榛原を継いだ三代目(本名・中村平三郎/1846-1910)は非常に積極的な人で、創業以来の雁皮紙・書簡箋類や団扇・扇子の製造販売のほか、幕末から明治維新にかけて西洋紙の輸入・販売、日本の紙製品の輸出。新皇居の江戸城を始め宮家の内装等を手がけ、明治維新とそれに続く動乱期を乗り切った。

図1の、店舗を描く明治18年の銅版画には、看板には主力商品の雁皮紙と共に「西洋紙品々」の字が見られる。

平成十八年より社長は七代目の中村達男

CONTENTS _2 郵便創業期の記録「郵便切手類沿革志」


図1 榛原直次郎の店舗部分の銅版画 河鍋暁斎 画
(明治18年発行 東京商工博覧絵より)

ここの記録は、「郵政研究所付属資料館(逓信総合博物館)研究調査報告(7)」として平成8年上梓された。資料館所蔵の「郵便切手類沿革志」(正編・付録諸表)と「続郵便切手類沿革志」(続編)の全文を収録し、解題が付されている。

これらは、明治26年(1893年)から樋畑正太郎(雪湖)と大草達成(元文部省史料編纂)が担当して資料の収集・編集を始め、翌27年12月に脱稿した。
この正編から付属文書を省略し、「綱文」とその英訳を付したものが、明治29年に500部製作された「大日本帝国郵便切手沿革志」である。

「郵便切手類沿革志」に採録されている付属の決議類は、切手類調整の経緯を物語る貴重な公文書の宝庫なので、表題の二つ折りはがきの製造の議論も、この記録を中心に進めることとする。

CONTENTS _3 樋畑雪湖による榛原直次郎の調査

「郵便切手類沿革志」解題の部9頁に、資料収集担当の樋口が行った、榛原の調査が記載されている。

明治27(1894)年6月、樋口は印刷局から「明治7年以前の葉書き封皮帯紙の多くを紙商榛原直次郎に製造させたが、その数量などはっきりしない」との情報を得て、早速許可を取って榛原へ調査に行った。この調査の榛原の返答(請求)は、 「明治6年12月以後発行の郵便葉書き封皮及び帯紙飛信切手類は私どもに製造の御注文を戴きました。今般その詳細について報告するようにとのお達しがありましたので、早速調査しましたが、数年も経ており、その時の帳簿類も見つからず、又担当者も換わっていて、調べが附かず当時のことは分かりません。ご了承ください。日本橋区通り一丁目一番地 紙業 中邨直次郎代理 柴茂八 廿七年六月十八日 逓信省御中」
という趣旨のものであった。結局この調査では、印刷局も榛原も、明治7年発行のはがきは榛原製であることは承知していたが、その内容を裏付ける資料は発見できなかった。

CONTENTS _4 二つ折りはがき(紅枠・脇付き・脇なし)の発行の経緯

この項では、主として「郵便切手類沿革志」正編の記事のうち、二つ折りはがきの発行に関係のある部分を要約して引用し、これに国立公文書館所蔵の「公文録」等、および現在までの二つ折りはがきの使用例の研究等を加えて、簡単に発行の経緯をたどる(なお、[ ]内の数字は調査報告書の綱文(主文)の整理番号である)。

[12]紅枠はがき

「回議書類欠」と朱書して布告文のみ記載があるが、「公文録」によれば、大蔵省事務総裁大隈重信から太政大臣三條実美宛、明治6年9月23日に手書きの雛形8枚および布達案規則案を副えて「郵便はがき紙並びに発行の儀に付き伺」が出されている。この伺いについては、布達案の原案を訂正の上、明治6年11月20日第389号で布告を許可する案件として10月8日決済されている。この結果、日本最初のはがきの発行は右大臣岩倉具視名で明治6年11月19日、次の通り布告された。
「当六年十二月一日より郵便ハガキ紙ならびに封嚢発行条、別紙規則の通り相心得るべく此の旨布告候事。(以下省略)」 二つ折りはがきの使用済を調査した結果では、紅枠はがきは東京のみで試験的に発売して、西京・大阪へは次の脇付きはがきを配布し、売れ残った紅枠一銭はがきは名古屋地方で売り捌かれたと推定される。

[13]脇付きはがき

紅枠はがき発行の翌日12月2日、駅逓寮真中大属から「表紙の裏面に規則を印刷する旨正院へ届けを出したい」との伺いが提出され、即日大蔵卿の決裁となった。「公文録」によれば、翌3日には紅枠はがきに手書きで加筆した雛形2枚と、紙幣寮へ「駅逓寮と打合せること」とのお達し案を添付した、正規の届けが大蔵卿から右大臣宛に提出されている。

打ち合せの結果は不明であるが、日本最初のはがきの発行日を待ち兼ねるようにして行なわれた、この非常識な改正の本当の狙いは、高い製造原価の低減だったと推定されている。発売されたはがきは、表面は2色刷から1色刷に、裏面は凹版から活版に変更され、布告もなく三府で発売された。最初期使用例としては翌年の明治7年2月半ばからの、東京・京都・大阪のものが発表されている。

[16]脇なしはがき

紅脇はがきが発行されてからわずか1ヵ月半後、脇付きはがき発売前の明治7年1月19日に、内務卿大久保利通から太政大臣宛に、「郵便はがきと封嚢の切手の模様(印面)の表示を切手と同じ郵便切手から夫々郵便はかきと郵便封皮に変えたい」という届けが提出された。
この後早くも2月には、「製品ができたので、4月1日から新はがき及び封皮を発行する旨の太政大臣布告を出してほしい」との伺いが提出され、はがき封皮の雛形(墨点)を付した、伺い通りの布告が3月3日付で全国に交付された。
また、4月中旬からは三府五港だけではなく、全国の郵便局でも一斉にはがきを売り出した。

[19]郵便はがき紙・封皮の製造を
榛原直次郎から紙幣寮に変更

明治7年10月9日に、川邨駅逓少属から内務卿・駅逓頭及び大蔵卿・紙幣頭に宛てて紙幣寮の見積書を副えた、次のような趣旨の伺いが提出された。

「はがきと封皮の製造費を紙幣寮に見積もらせた処、現在製造している榛原より安い。榛原との契約もあるので来年から紙幣寮に発注したい」この伺いが承認された後、紙幣寮は駅逓寮と新はがきの形式の協議等準備に着手し、輸入設備とお雇い外国人の到着を待って、8年春から手彫小型はがきの製造に入ったものと思われる。

CONTENTS _5 郵便切手沿革志付録諸表および駅逓年報

表は、「郵便切手沿革史付録諸表」から二つ折りはがき関係の数字を抜粋したもので、付録諸表の製造高・製造費は印刷局沿革史の資料の引用、売下枚数は逓信省の資料である。
明治8年度(9年6月)までの売下枚数合計が、製造枚数の合計より約360万枚多い。これが榛原製造の脇付き・脇なしはがきの数量であろう。
参考のため「明治第七駅逓年報」を見ると、経費の部(支出)の「本寮支払の分」の項目に「端書封皮製造費」と「飛信切手製造費」が、また「他局支払の分」の項目に「紙幣寮支払郵便切手製造費」が計上されており、7年度ははがき封皮を民間に製造させたことがはっきりしている。

脇なしはがきの後期の仮名の最初期使用例は、おおむね8年2月以前である。非常に大雑把に、7年末に脇なしはがきの製造を終了したとして、7年度の端書封皮製造費14,000円余が脇付き・脇なしはがきの製造費とすれば、これを360万で割ると1枚あたりの製造費は3厘9毛になる。これは実際より安めの概算で、5厘・1銭のはがきの原価としてはかなり高い。ちなみに、切手の原価は明治7年で平均1枚3毛で、20代年にははがきは1厘、切手は1毛と、紙幣寮の原価低減の努力が結実している。

表 付録諸表から 初期はガキの製造高・売下枚数・製造費の抜粋(明治6年分~明治8年分、単位:枚)
明治6年
1月-12月
明治7年
1月-12月
明治8年
1月-6月
明治8年度
8年7月-9年6月
合計
はがき製造高31,600635,7115,426,5026,093,813
はがき売下枚数8,0402,239,4698年1月-9年6月
7,341,384
9,678,893
はがき1枚の製造費??2厘7毛2厘1毛小判はがき
2厘2毛

料金表は横にスクロールしてご確認ください。

CONTENTS _6 「切手/紅枠はがき」と「脇付き/脇なしはがき」の印面の相違について


図2-A 紅枠はがき

図2-B 脇なしはがき

「和紙青1銭」から「房褐1銭」に至る、すべての桜切手および「紅枠はがき」のグループの印面と、「脇付き・脇なしはがき」のグループの印面とでは、いろいろな所に共通した相違点があり、また秘符も確認されている。
このことは「紅枠はがき」と「脇付き・脇なしはがき」は、まったく別の原図と彫刻者によって製作されたことを示唆している。
図2は1銭の「紅枠はがき」と「脇なしはがき」の印面であるが、これを見本に、「切手/紅枠」をA、「脇付き/脇なし」をBとして、共通した相違点のうち、主要な箇所を説明する。

  1. 左の桐の花先の上端がAは平らでBは尖っている。
  2. 下部の桐の葉は、Aは下から1枚目が2枚目の上に重なっており、葉脈は全部5本であるが、Bは下から2枚目が1枚目の上に重なり、葉脈は1枚目と3枚目が4本である。
  3. 右の菊の模様はBはAに比べ、花葉共小ぶりであるが、特に下から2番目の花は小さく、又その左に秘符(シークレットマーク)の小点がある。
  4. 上部の菊花と枝にもかなりの相違点がある。(半銭については図示説明とも省略)

CONTENTS _7 明治6年末の紙幣寮の情況と7年以降の大改革

紅枠はがきが発行された明治6年12月頃の紙幣寮は、職制および事務章提を改正し、ようやく民間依存の体制の脱却を始めたところであった。この時期には、まだ輸入紙幣の検収押印・証券類緒印紙類等の製造がすべて三井組の担当で、印刷版の彫刻は松田敦朝等に委ねられていた。また、活版印刷は太政官の印書局が担当していたが、一部の印刷と活字の製造は、工部省の製作寮が行っていた。

この情況の下では、紅枠はがきは作ったものの、原価の見積が不正確で、製造して初めて高いことが判り、その対策として企画した脇付きはがきは活版と凹版の複合印刷で、その製造は自信がなかったものと想像される。

そこで、紙幣寮が斡旋をして、印刷経験の豊富な西洋紙の輸入商・榛原直次郎に、駅逓寮が一括発注したのではないかと推定される。その際、前期の川邨少属の伺いの通り、榛原に7年末までの発注を保障したのであろう。

しかし、明治7年に紙幣頭が得能良介に替り、工場の直営・工員の直接雇用・印刷機械の大規模な輸入・新技術指導のための外国人の雇い入れ・新工場の建設などを、強引と思われるほど積極的にすすめた。そこへはがきの製造費の低減の相談を受け、自寮の売上増にもなるので喜んで協力したと思われる。

CONTENTS _8 印刷について

二つ折りはがきの印刷そのものは、1カ月に30~40万枚位であれば、手引き印刷機が活版1台・凹版2~3台もあれば十分で、榛原で行ったものと思われる。また、とんぼの変化から推測すると、途中から手引き紙裁機械を導入していて、印刷の偏りが少なくなっている。
脇付き・脇なしはがきの原版・実用版の製作者については、紙幣寮製造の洋紙桜切手と同時期の発行なので、確証はないが

松田敦朝・梅村翠山および紙幣寮の彫刻関係者ではないかと思う。

以上が、脇付きおよび脇なしはがきは、紙商・榛原直次郎の製造に間違いないとする根拠および推論である。この(おそらく)新説の論拠に対する皆様のご意見と種々の資料の発表を是非お願いしたい。

出典:郵趣研究 2002-4通巻47号 財団法人 切手の博物館発行