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和紙を彩り飾


文:池田 眞亭(固有名詞を除く旧仮名遣い・旧字は現代の用法に改めています)


柴田是真「花くらべ」聚玉文庫所蔵


榛原千代紙 河鍋曉斎(1831-1889)「菊花」聚玉文庫所蔵


柴田是眞「七福神」 聚玉文庫所蔵

明治初期を代表する2大画家、東都画壇の両大関と結城素明氏が言はれる様に――世界美術全集所載――柴田是眞、河鍋暁齊の両先生が榛原のために実に多くの作品を物され、殊に摺物として団扇絵、熨斗絵、襖形など非常に立派な物が沢山にできました。現今和洋画の大家が是を蒐めて珍重せらるるのを見ても如何に結構な物であったかが窺われます。

その頃京都から来られた後の帝室技芸員川端玉章先生も摺物の下絵の上手な作者で熨斗や団扇模様などに宜い物ができ、亦平福穂庵先生――百穂先生の先代――も見事な摺物を残しました。

当時は未だ美術かに幸せな時代で、橋本雅邦先生が卅五銭の日給で陸軍の絵図を引いて居たという様な頃で、京都の芳園門下で現今なら審査員格の久保田桃水先生が1枚何銭の絵封筒や、その他の描絵を、店の小僧が待って居る間に描かれたこともありまして、こうしてできあがった絵が1枚、1枚実に立派な作品だったのです。


川端玉章「秋津百景」 榛原発行

この頃は榛原の為に霊筆を揮われた画伯も多く、寺崎廣業、久保田米僊、野村文擧、池田眞哉、高橋應眞、莊司竹眞、綾岡有眞等の諸先生で重に摺物の下絵、襖形などを作られ、其の外商品の蒔絵なども一流を網羅して、池田泰眞――後の帝室技芸員、柴田令哉、田邊照成――日本美術院教授等の諸大家で、榛原の商品の良いという事も随って偶然でない訳です。

こうして一流の大家が商品の製作に就いて競う様な有様でしたが、商品の製作以外に恁うした先生型に依頼助力奨励されたことも数多く、明治廿八年頃、龍池会――後の日本美術協会――以外に展覧会のない時で、当時の中堅作家が集って日本青年絵画協会という我国始(原文ママ)めての私設展覧会を設立することになり、呉服橋外の寄合茶屋柳屋で同会の創立を行いましたが、前記の様な時代で費用に苦しむという折に、金百円也を寄附してその会の後援をされました。会合中にそのことが一同に伝わると座中の鞆音、廣業、半古、年方、眞哉、丹陵、江亭、竹眞、敬中その他の画伯が喜ばれたそうで、唯今なら何んでもないと考えられますが、当時にしては大金で、恁うした間に美術家に勧めて外国博覧会、内国美術展へ出品して、大に努め、製作品は其を買求めたり、或は大きな硝子張りの箱を作って海浜に画家を連行して魚類その他の写生を試みる、つまり後に出来る水族館の縮図の様な新しいこともされ、彫刻では石川光明氏――帝室技芸員――彫金では加納夏雄氏蒔絵で泰眞先生等々枚挙に遑もないほどで、当時の美術界に直接、間接に貢献する所が少なくなかったと聞いて居ります。

この榛原の主人公――先代――は殊に是眞、暁齋の先生が好きで、浅草石切河岸の對柳居――是眞翁の住居に足繁く行かれ、翁と主人公とは肝膽相照らしたということで、美術のことに限らず、事業の相談までされたという位で、当時日本橋の勝田氏と――是眞礼讃者――依頼画の競争をしたなどという話も残って居て、こんな訳で是真翁の逸品は榛原に蒐まると迄言われた位でした。


川端玉章が榛原に提供した千代紙図案
(『技藝之友』第3号 明治38年12月15日発行より)
聚玉文庫所蔵 ※1

暁齋先生も面白い気風の方で、態々店へ出向いて御酒を召上り乍ら摺物の下絵を描かれ、店では、この時には金2円~3円を謝礼として差出したそうです、勿論気に向かぬ時は1枚を描かずにお帰りになっても同様だったので、当時にすれば多額のように考えられます、暁齋先生は酒が好物で召上って居る時など、一寸御機嫌が悪くなって来ると、大勢で手に余る時があって、こんな話も御座いました。

両国の萬八楼の書画会の席上で、御機嫌がななめになり、座中の人達が弱って居る折に、人形町の勝文齋さんが――今の先代で是眞翁が好きで自ら是椿としゃれた面白い方でした――私が良い所へ御案内をと2人乗の人力車で榛原へ乗り付けて、主人公が挨拶に出ると、今まで非常な勢な暁齋先生が、平常の如くになられたということで、これなども暁齋先生の面目が現れて居る話だと聞いて居ります。

その他斯界の大家和田英作先生又は益田好遠氏、日本画で玉秀、米齋、金僊、柳塢氏などいずれも榛原と関係を持たれた方で、こうした中で異彩を放ったのは和田春龍氏で、この人は榛原の小僧さんで、絵が好きで斯界に志して、文展、帝展に入選された程でしたが、先年将来を約束され乍ら早世されたことは惜しいことでした。(完)

※1 同紙次頁には以下の記載があります。
維新前迄は此の千代紙なるもの幕府奥向を始めとして 各諸侯方の奥方にて夥しき需要ありしが 維新廃藩後は其の需要も頓に減じ その蔵版も追々と減じたるを遺憾に思ひ 先頃日本橋通り一丁目の榛原にて川端玉賞画伯の筆を頼み新製の千代紙十種を新版して売り出せり (本号の挿画を見よ 遉に伯の手に成れる程ありて彩色等に申分なく 染物織物の応用に適当の品とも面はるるは先づ嬉し[後略]