榛原とはabout / history
普遍的な美を備えたものづくり

文:大木 優子
CONTENTS _1世界のデザイン運動と榛原
榛原と世界のデザインとのかかわりは、19世紀イギリスから。
当時のヨーロッパでは産業が高度に発達し、身の回りのあらゆる品々の流通がいっそう盛んになりつつありました。自国の製品がより広い世界市場で競うために、デザインの必要性を強く意識したのがイギリスでした。同国では、王室の主導でデザイン水準の向上にむけた実践がはじまりました。
ヴィクトリア女王(Queen Victoria, 1819-1901)とその夫君アルバート公(Prince Albert, 1819-1861)は、その一連の取り組みのなかで、自国の製品と諸外国の製品を一堂に集めた万国博覧会の開催を実現させました。これが1851年ロンドン万国博覧会(Great Exhibition of the Works of Industry of all Nations)です。
水晶宮(Crystal Palace)と呼ばれた鉄とガラスの巨大建築のなかには、陶器、織物、鋳鉄品、家具、装飾品、敷物、ガラス製品、楽器、照明器具、時計など、国の内外から集められたあらゆる文物が展示されていました。こうして自国の高い技術力や造形性を世界に示すとともに、諸外国のすぐれた文物から得たインスピレーションでデザイナーや製造業者を激励するという博覧会は、当時大変な話題を呼び、これ以降も欧米諸国において競うように開催されていくことになります。

このような動向のなか、日本において、その文物収集の責任を担っていたのは駐日英国公使でした。万延元年(1860年)、駐日英国公使オールコック卿(Sir Rutherford Alcock, 1809-1897)は、外国人で初めて富士山に登り、その帰路、今井半太夫のもとで熱海雁皮紙の抄紙の工程を見学して和紙の原料調査を行ったことを、彼の著書『大君の都』(The capital of The Tycoon : a narrative of a three year’s residence in Japan, 1863)のなかに記しています。このとき、オールコック卿に贈られた和紙の数々は本国イギリスへ報告され、翌1862年、ロンドン万国博覧会(1862 International Exhibition)において展示されました。
同博覧会を見学した福沢諭吉の記述(慶應義塾編『福澤諭吉全集』第19巻、岩波書店、1962年)にも、「紙類」が出品されていたという記録がのこっています。このときの日本の文物展示は、和紙をふくむ日本の美術工芸品にヨーロッパ諸国の人々が接する初めての機会となり、その技術や意匠に諸国の関心が注がれるきっかけをもたらしたと言われています。
さらに、オールコック卿の後任パークス卿(Sir Harry Smith Parkes, 1828-1885)は、1869年、当時の英国首相グラッドストーンの要請をうけ、1871年にその調査報告書『日本における紙の製造』(『パークス・レポート』、Reports on the Manufacture of Japan, 1871)を本国に提出しました。彼は2年以上の時間を費やし、各国駐在領事を通して国内22カ所から和紙および和紙製品を400種以上集めたのです。そのなかには、榛原を経営する須原屋佐助の金花堂製品がふくまれていました。これらは現在、パークス・コレクションと名付けられ、ロンドンのヴィクトリア&アルバート美術館とキュー王立植物園(キュー・ガーデン)に収蔵されています。
海を渡った榛原製品
雁皮紙をはじめ、団扇、襖紙、千代紙など、榛原ゆかりの品々は、ウィーン万博(1873年)(Weltausstellung 1873 Wien)、パリ万博(1878年)(Exposition Universelle)、バルセロナ万博(Exposición Universal de Barcelona)(1888年)ほか数々の万国博覧会に出品され、また文物交換事業によってひろく海を渡って収集、展示される機会を得てきました。各国でデザインや技術の水準向上という問題意識が高まった時代に、榛原はまさにその最前線で評価を受け、数々の褒賞授与という栄誉に浴してきたのです。

(印刷見本『国乃たくみ』より) 聚玉文庫所蔵


海を渡った榛原の製品は、産業とデザインの発展にも寄与した貴重な資料として位置づけられ、現在も、イギリス・ロンドンのヴィクトリア&アルバート博物館(Victoria and Albert Museum, London)やキュー・ガーデン(Royal Botanic Gardens, Kew, London)、スコットランド・グラスゴーのケルビングローブ博物館(Kelvingrove Art Gallery and Museum, Glasgow)、フランスのパリ装飾美術館(Musée des Arts décoratifs, Paris)など、世界各国のミュージアムにおいて保存されています。榛原の名は、このような貴重なコレクションの数々によって、19世紀のデザイン運動という歴史のなかに記憶されています。
CONTENTS _2ジャポニズムと榛原


19世紀後半、
ヨーロッパ諸国で生まれた
流行様式「ジャポニズム」。
ヨーロッパ諸国での日本の造形に対する関心が高まりとともに、19世紀後半にはその影響から大きな流行様式が生まれました。「ジャポニスム(日本趣味)」(Japonism)と呼ばれる異国趣味です。博覧会の出品物や輸入品として流通していた日本の文物は、それまでのヨーロッパでは目にしたこともないような造形に独特の美意識をたたえていたことから、芸術家たちは、そこから新たなインスピレーションを得ることになったのです。彼らはこぞって浮世絵や団扇、扇、陶磁器、着物のような珍しい品々を手に入れようとし、それらを介して日本美術にますます魅了されていきました。すると今度は彼らの作品が日本の美を強く意識したものとなり、絵画にはじまって、家具、装飾品、あるいは広告や装丁などのデザインに至るまで、あらゆる造形芸術にジャポニスムが影響を及ぼしました。
和紙の文化に注がれる、日本文化への熱狂のまなざし。
画家たちの熱狂ぶりは印象派の絵画にも表れることになります。1875年(明治8年)、フランス印象派を代表する画家マネが描いた《ラ・ジャポネーズ》(La Japonaise, Madame Monet en costume japonais)(ボストン美術館所蔵)には、見返り美人さながらに着物をまとった妻カミーユの背景に、壁を埋め尽くすほどのおよそ15点の日本の団扇が描かれました。1887年(明治20年)には、同じく画家ゴッホも、《タンギー爺さん》(Le Pere Tanguy)(ロダン美術館所蔵)の背景に鮮やかな浮世絵版画の数々をちりばめています。
また、グラスゴーに渡った千代紙などは、当地で日本美術への関心の高まりを生むきっかけを作ったとも言われ、チャールズ・レニー・マッキントッシュ(Charles Rennie Mackintosh,1868-1928)たちモダン・デザインの旗手が同地から誕生しています。 このように、当時、日本文化に対する熱狂のまなざしが、とりわけ和紙の文化に注がれていたことは大変興味深いことではないでしょうか。
CONTENTS _3デザイン事始めと榛原

聚玉文庫所蔵

日本に「デザイン」という
言葉や概念が登場したのは、
明治から。
日本では明治になってから「デザイン」という言葉や概念が登場し、明治政府は様々なかたちでこのデザインを必要とし、産業として育みました。
19世紀のヨーロッパで日本の美術工芸品がひろく受け入れられた背景には、明治政府が工業化の原資を求めるため、また輸出事業そのものの振興をはかる政策として、そうした美術工芸品に多大な期待を寄せていたという事実があります。また、国内では、西洋文明を受容して近代国家を築いていこうとする動向のなかで、身の回りのもののかたちが新たな制度とともに整備されていきました。
「日本の文化というものは、和紙とともに歩んできたといっても過言ではない」、榛原の長い歴史を見つめて六代当主はこうした言葉をのこしています。紙はかつて日本の生活の大部分を支える素材として、暮らしに不可欠のものでした。そして時代に変化が求められつつあった明治期には、いよいよ、暮らしをとりまく素材にも変化が起こり始めることになりましたが、それは同時に、紙に求められる役割や機能を見つめ直す意義深い機会となり、榛原に脈々と受け継がれてきた技術や知識を次の時代のために提供することになりました。
昭和5〜6年頃、「明治式団扇」をデザイン
一方、江戸時代から受け継がれた店頭の品々も、変わらぬ丹念な手仕事に新技術を取り入れながら、改良が試みられました。創業以来の古い歴史を持つ団扇も例外ではありません。社内報『互研』(昭和5〜6年)では、創意工夫を重ねながら、ついに「明治式団扇」をデザインしたとの回想が記載されています。
それによれば、新しい時代に求められる団扇をデザインするにあたり、より発達した印刷技術による鮮明な発色を可能にする紙を厳選し、さらに、技術の向上とともにより美しい造形を実現するために団扇絵にふさわしい色縁を使い、また仕上げも優美な卵形にすることで、ついに新しい「明治式団扇」が完成したといいます。かつて江戸団扇を代表するとまでいわれた榛原の団扇は、ここに新しく生まれ変わり、ふたたび「内国向き」「外国向き」を問わず、明治の団扇として普及していくことになりました。

左下:榛原型団扇(社内報「互研」第2号、昭和5年7月15日発行より)
聚聚玉文庫所蔵

聚玉文庫所蔵
また、興味深いことに、榛原は街ゆく人々の衣装やその流行にも強い関心を寄せ、粋な人々に似合う四季折々の意匠を考案していたといいます。その団扇絵には、たとえば「酒井抱一、椿椿山、渡辺崋山、森寛哉、などの諸先生」が描く、品あるものが選ばれ、榛原でしか手に入らない団扇を揃えていました。くわえて、川端玉章(1842-1913)、河鍋暁斎(1831-1889)、柴田是眞(1807-1891)、竹久夢二(1884-1934)まで、榛原の図案は、当時の美術の動向をそのまま反映していたと言っても過言ではありません。ただうわべを飾るだけなら、これほどの才能を起用するまでもないことかもしれませんが、すぐれたデザインを実現する過程で、製品の美術的な側面が非常に重視されていたことがわかります。

高浜虚子(1874-1959)
「竹の湯の一号室や明け易き」
聚玉文庫所蔵

聚玉文庫所蔵

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榛原のデザインの礎を築いた、アート・ディレクターたち。
紙は心をつたえ、紙は暮らしを豊かにします。だからこそ、目に見える「かたち」を吟味しながらも、それがいかに「こころ」を動かすことができるかどうか、つまり、実際には目に見えないものを追求してきたのです。
このような変化の時代に榛原のデザインの礎を築いた当主たちは、今日の言葉を借りるなら「アート・ディレクター」に相当する役割も担っていたと言えるかもしれません。
まず時代に応じた基礎をつくること、そして流行の変遷もとらえながら、やはり使い捨てではない普遍的な美を備えたものづくりを行うこと――当時の資料からは、デザインに対するそのような信念がみてとれます。

聚玉文庫所蔵

聚玉文庫所蔵

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