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お客さまに支えられて今日の榛原があります

榛原の歴史

    CONTENTS _1創業二百年の歴史

    創業は文化三年(1806年)—
    初代佐助が和紙舗を開業してから二百年にわたり、
    日本橋の地で商いを続けさせていただいております。

    現在の榛原の暖簾(のれん)
    現在の暖簾(のれん)

    江戸期

    初代佐助は、書物問屋須原屋茂兵衛にて奉公の後独立し、紙、墨、薬の商いを始めます。 とりわけ、良質な雁皮植物を原料として漉いた雁皮紙は“一筆墨をのせると、滑らかな筆あたりで、文字がきれいに書ける”と、粋を好む江戸の人々の間で大変な評判となりました。こうして、「雁皮紙榛原」の暖簾(のれん)は、江戸中に広まったと言われています。
    また、和紙に木版摺りで装飾を施した千代紙、団扇、便箋などの小間紙類も、主力商品として広くご愛顧頂きました。

    history3
    「聚玉」有栖川宮熾仁親王殿下(1835-1895)

    明治期

    幕末から明治時代という文明開化の世においては、いち早く各種博覧会を通じ、和紙を欧米諸国に紹介しました。明治6年(1873年)ウィーン万国博覧会、明治11年(1878年)パリ万国博覧会、明治12年(1879年)シドニー万国博覧会、明治21年(1888年)バルセロナ万国博覧会などで褒状を授与され、国際社会に対して日本の文化水準を示す一翼を担います。この間に、ヨーロッパに渡った榛原の和紙製品はイギリスのビクトリア・アルバート美術館、グラスゴー美術館、フランスのパリ装飾美術館などに保管されており、19世紀後半に西欧に広まったジャポニズムに影響を与えたといわれています。

    一方、国内では文明開化の時流を早々に取り組み、西洋紙を扱いました。明治期の榛原の引き札や店頭には「西洋紙品々」という看板が大きく記されています。

    三代目榛原直次郎は、明治16年、日本美術復興を目的として結成された龍池会に入会し、明治24年には日本青年絵画協会(のちの日本美術院)の設立を援助しました。柴田是真、柴田眞哉、綾岡有心、川端玉章、河鍋暁斎などの当代一流の画家と交流を深め、団扇や扇子、木版摺り製品などの榛原製品の原画を多く依頼しました。これが、現代に続く「榛原デザイン」の礎となっております。明治21年には、明治新宮殿の天井張、壁紙などの内装の御用を勤め、有栖川宮熾仁親王殿下より、「榛原の品は玉を聚(あつ)めたるが如し」と堂号である「聚玉」の御染筆を賜りました。


    方眼紙の見本帳
    大正8年には、産業の発展にともない日本ではじめて計測記録計用紙を製造しました。

    大正・昭和期

    大正時代に入ると、産業の発展とともに新しく計測器が外国より輸入され、それに使用する計測用紙の開発の必要性が叫ばれるようになりました。

    これを受け、榛原は創業以来の印刷技術を駆使し、大正8年(1919年)に、日本で初めて計測記録紙の製造に成功し、この年に法人化。その後、関東大震災、第二次大戦という2度の被災で事業も大きな打撃を受けましたが、それを凌いで事業の安定化に成功いたしました。戦後の産業発展に伴い、各方面に押し寄せた自動化、省力化の波に対応すべく、昭和39年(1964年)に計測記録紙の印刷工場を設け、生産体制をさらに強化。その品質の高さから米アポロ計画(アポロ11号)に採用されるなど、国内、さらに諸外国からも多数の注文を頂いております。また、ビジネスフォームなどのオフィスサプライ用品などの取り扱いも開始し、IT時代に対応する体制を築きました。

    CONTENTS _2手仕事の文化を支えて


    現代の製作工程
    木版摺 絵はがき「夢二の旅」奥山義人 彫

    和紙を通じて、
    生活に彩りを添える

    和紙は、手紙として人の想いを運び、贈答品の包や熨斗として、言葉以上に気持ちを伝える物です。
    だからこそ、小さな紋様ひとつにも確かな技術を凝らし、美を追求して参りました。


    大正期の木版摺切り熨斗


    大正〜昭和期に販売していた折形雛形

    榛原では、用途に応じた和紙のご提案と、販売を行っております。また、水引を手で結び熨斗(のし)をつける作業を店頭で行っております。「和紙そのものをお売りするだけでなく、昔からの礼節や作法を伝える。すなわち”和紙のある暮らし”をお伝えする」という姿勢は、和紙にこだわりつづけてきた先代からの教えによるものです。

    CONTENTS _3生活を藝術に


    榛原木版団扇絵 河鍋暁斎(1831-1889)「鶏図」聚玉文庫所蔵

    江戸っ子の間で
    大いに流行したはいばらうちわ

    文化文政の頃より、木版摺りの団扇は、雁皮紙と対をなす榛原の人気商品でした。毎年4月14日の「うちは初め」には、新作の団扇を求めて、多くの人々が集まり、「榛原うちわは初夏流行の魁(さきがけ)」として風物詩となっていたほどです。人々は、榛原うちわを浴衣の帯に差して散歩をしたり、蛍を払ったり、ファッション感覚で楽しんでいたようです。
    また、それらは代表的な江戸土産として知られていました。正岡子規も、はいばらうちはについて句に詠んでいます。

    はい原の 団扇を送る たより哉 (明治31年 「俳句稿 正岡子規自筆本」より)
    鶏が鳴く あつまの江戸の はい原の 焼きじるしある 絹団扇かも (明治31年「定本子規歌集」より)


    榛原木版団扇絵
    柴田是真(1807-1891)「なでしこ」聚玉文庫所蔵

    うちわ絵と、その原作者たち。

    はいばらうちはの原画を担当したのは、江戸時代には酒井抱一、椿椿山、渡辺崋山。幕末~明治期には川鍋暁斎、柴田是真、川端玉章。大正期以降は川瀬巴水、伊東深水など、当代において一流と言われる画家達でした。

    人々が身近に使う団扇に、各時代を象徴するような美術家の作品を取り入れ、「生活の中で芸術を愉しむ」喜びをお客様と共有しました。


    榛原木版団扇絵 竹久夢二(1884-1934)聚玉文庫所蔵

    榛原と、夢二。

    大正時代、榛原の歴史に新たな異才、竹久夢二が登場します。抒情溢れる美人画で名高い夢二は、榛原の便箋、絵封筒、絵葉書、千代紙、うちわ、広告等の図案を 数多く手掛けました。
    夢二は榛原のデザイナーであると同時に、作品制作に必要な和紙を求める顧客でもありました。当時の当主、四代目榛原直次郎は、夢二と親交が深く、彼が欧州に旅立つときに援助をしたとの話が伝わっています。

    CONTENTS _4暖簾を磨き育てる


    木版摺ちらし便箋 柴田是真(1807-1891)「菜の花畑に蝶」聚玉文庫所蔵

    長く愛されるデザイン

    現在、榛原は新しい商品を積極的に考案する一方、変わらぬデザインで、長くお客様に愛されている商品を大切にしています。榛原の歴史は、お客様の歴史でもあります。これからも、「のれんを磨き、育てる」努力を大切に重ねて参ります。